<絵図と地形>
享保年間に描かれた諏訪藩一村限村地図には、図幅東北に東原川(現在の中門川か?)、中央に乙白川と大阿原(沼沢地)およびそれを開拓した田地が記されている。集落家屋の記載はない。
東原川は、現在の中門川に相当すると思われる。当時の江川(上川)から分流しさらに白狐(図上部)で乙白川を分流する。白狐と湖の間に残る広大な低湿地帯(大阿原)の中を東の東原川、中央の乙白川が分流を繰り返し網目状に流れている。御城と記される区画の前面一帯は、城の防御の堀の役割も兼ねた横堀・内溝・横溝・中溝等が巡らされている。既に陸化した地域に相当する。乙白川から大阿原には取りこぼしが複数放たれ、低地の陸化がまさに進行している状況を示す。
図下側で御城に並ぶ連台場田地は、中門川・乙白川の河口に生れた三角洲(デルタ)の跡地と推定される。南から西の一帯には、大阿原を隔て福島・金子および文出の微高地からこの低地に流入する宮川系の古田新川、古川が土砂を供給している。この河口が合わさり三角洲が複合した地域に江戸以後の新村(渋崎)が発生する。
この小和田村図幅内に集落・家屋の表示は無い。小和田村添書には、家数と石高および御城より里程等は記されていない。
小和田村 元高 七百四拾壱石七斗弐升六合
高 六百拾八石壱斗九升四合
物成 百八拾五石四斗五升八合弐勺
<地質>
この絵図が描かれた時代の小和田村は広く、現在ある高島城の南に広がる広大な阿原一帯を指していたと思われる。
現在の区・町名では、小和田・小和田南・高島四丁目・城南一丁目・二丁目・上川二丁目・三丁目を含む範囲と考えられる。
〔No.1地点〕
高島城と島崎川の間の県道に面した鉄骨造民間事務所地点のボーリングデータである。
県道に面した敷地は造成され、礫交り土砂による盛土が1.20m、下位の耕作土と思われる有機質シルトに接する。GL-1.90mより下方にシルト質腐植土・中砂・粗砂とシルトの互層が約14m続く。砂は粒径の小さいシルト質砂からやや粒径の粗い粗砂までで、島崎川がもたらしたものと推定される。シルトは、高島城の南に広がる阿原に沈積生成した低湿性の土層と考えられる。
GL-14.10~14.75mに腐植土を挟在する。低湿地にヨシ・マコモの未分解堆積土層と推定する。
GL-17.75m以深に大礫を多量に含む砂礫が現われる。安山岩質砂礫、φ=25~75mmの中礫から大礫を多量採取する。礫径が大きいことから角間川の砂礫と推定した。
GL-20.60~22.90mに固結シルトを挟在する。
高島城南の低湿地帯に設けられた県道に沿う敷地地盤である。GL-14~15mまでの間の土層は、砂を比較的多く含有する。
GL-18m以深の砂礫は、上川系の島崎川が運搬堆積したものではなく、直近の東山山体から流出する角間川の扇状地砂礫である可能性が大きい。
〔No.2地点〕
主要地方道諏訪・辰野線、島崎交差点南の調査ボーリングデータである。
地表面下15.50m以浅に軟弱な腐植土と緩い砂が互層した状態で堆積する。
GL-15.50~22.35m間に密に締った砂と砂礫が続く。
GL-22.35mより下方は、硬い砂質シルトと中密~密な砂に移行する。
GL-27.60m以深に火山灰土が現われる。火山灰土は、腐植土混じりであったり砂混じりであったりする。腐植土混じり火山灰土は、淡灰褐色を呈し暗褐の腐植土に混じっている。腐植土となる植生の中に降灰したか、洪水時に火山灰を多量に含む泥水が入り込み沈積したものと推定される。
GL-33.45~35.75m間の腐植土は、火山灰を全く含まない。この土層が堆積する期間中に、この辺の低湿地域を洪水が襲うことが無かったか、火山灰の降下が無かったかのいずれかと考えられる。
GL-35.75~36.60mに密に締った砂を挟み、硬く粘着性の高い火山灰土(~GL-38.40m)、密な砂(~GL-39.70m)、密な砂礫(~GL-42.70m)と続き、GL-44.70mまで層厚1.40mの腐植土混じり火山灰土を認めた。